須佐の入江と『ごもんじき』  第17番札所 極楽寺

古来より須佐のふる寺と尊称され、広く親しまれる当山の裏山(ぐもんじさん)は『ごもんじき』と呼ばれ、聖崎に上陸した弘法大師が求聞持の秘法を修行した尊い場所です。また、平治の乱で敗走し、野間大坊で討たれた源義朝公が、再起を賭け海路東行する為にめざした寺であるとも伝えられています。

海をへだてて伊勢の山々を望み、眼下には須佐の入江が広がっています。

「物に寄せて思ひを陳ぶ」

あぢの住む須佐の入江の荒磯松

我を待つ児らはただ一人のみ

(訳)アジガモの住んでいる須佐の入江の荒磯に生えている松のように、私を待つ女性はあなた一人だけです。

これは万葉集巻十一に詠まれた作者不詳の歌で、豊浜小学校には佐々木信綱揮毫による歌碑があります。須佐は豊浜の旧地名であり、太古から天然の良港として知られ、数多くの船の寄港地として繁栄していました。この港が須佐の入江に違いないと考えた斉藤駒吉氏や松田好夫氏ら先生方の永年の研究によって、豊浜須佐湾説が広く認められるようになったのです。昭和54年、名残りの荒磯松が一本残っていた峠の一角に、「渚沙乃入江」の碑が建立されました。

さて、万葉集巻十四にはもう一首、須佐の入江を詠み込んだ作者不詳の歌があります。

東歌「相聞」

あぢのすむ須佐のいり江のこもり沼の

あな息づかし見ず久にして

(訳)アジガモの住んでいる須佐の入江の奥深くこもる沼のように、気持ちがこもって息苦しいことです。あなたに長い間会わないので

以上の二首は別々に編集されてはいますが、松田先生の説によると、元々は男女の問答歌であったということです。

『ごもんじき』は、実に千年以上に渡って須佐浦の歴史と人々の営みを見守ってきました。それはこれからも続いていくのです。

『お亀さん』 第16番札所 浄土寺

こんにちは、十六番のお亀さん浄土寺です。

この寺が、どうして「お亀さん」をお祀りするようになったかの由来です。今から百十年前の出来事です。ご一読いただければ幸いです。

明治四十二年九月十日、早朝 体調一八〇㎝ 幅一一〇㎝ 重さ約二百㎏のアカウミガメが当時の海岸に打ち上げられていました。

大亀の背には、「奉大海龍大神」の六文字と 伊賀上野町谷村佐助 外十一名の姓名が記されていました。

大亀は、元気がなく瀕死の状況でした。

知らせを聞いた和尚は、大変驚きました。それは、和尚の夢枕に昨晩まで三夜続けて白髪の老人が現れ、「私は、長く海中に棲息する大亀なるが、もはや近く天寿尽きなんとす。若し、私を請して祀らば、誓って諸願の成就せしめん」と和尚に告げていたのだそうです。

和尚は、村人を集めて海岸に行き大亀に向かい「今より汝を神とあがめて我が境内に奉安せん」と語り掛けました。

和尚の言葉を聴き終わると大亀は、さも嬉しげにうなずき、眠るように息を引き取りました。

和尚と村人は、ねんごろに埋葬し、大海龍亀大菩薩として厳かに供養しました。

ことの次第を伊賀上野町の谷村佐助氏に連絡したところ、佐助氏は、大変驚き、ただちに一族を打ち連れ当地に訪れて大法要を営まれました。

三重県伊賀上野の庄屋 谷村佐助氏は、長く病気で苦しみ医者にも見離され、死を待つ状態でした。佐助氏は、病気平癒を念じて伊賀神宮に願掛けをしたところ、ある晩、白髪の老人が夢枕に立ち、「我は、長く海に棲む大海龍大神なり、我を十七日間、一心に念じて供養すれば貴方の病は、たちどころに平癒すべし」と告げられました。

翌朝、佐助氏は、幾人かに霊亀を探させるのでした。

そのうちの一人の番頭さんが二見ヶ浦に着いた時、不思議にも、たった今漁師の網に大亀が入ったと、ひとかたならない騒ぎに遭遇しました。番頭さんも実に不思議に思いながら、主人の指示通り大金を投じて漁師から大亀を譲り受け、国鉄の貸車に載せ、伊賀上野の谷村家に連れ帰りました。

佐助氏の喜びは、たとえようのないものでした。佐助氏は、十七日間、夢のお告げのとおり一心に供養しました。

不治の病といわれていた佐助氏の病は次第に快復し平癒しました。

佐助氏は、感激と感謝の思いをこめて大亀の背に「奉大海龍大神」と大書し、一族の姓名と住所を記し、再び二見ヶ浦に放ちました。

これ実に明治四十二年九月二日のことでした。

『寺院・篠島の紹介』 番外 松壽寺

番外 松壽寺は

開山 天文十一年(1542年)

雪天俊盛大和尚

本尊 如意輪観世音菩薩

住所 南知多町篠島東山五十六番地

 

松壽寺は『篠島』島です。お参りに来るには、師崎港・河和港・伊良湖港から名鉄海上観光船の定期便などにより島に渡っていただき、篠島港からは海水浴場を目指しますと東端の山上に松壽寺が見えてきます。正面に本堂、左にあるお堂に観音様が祀られています。

篠島・・・2010年の国勢調査における人口は1763人。面積は0.94k㎡、南知多町の本土との最短距離は約3キロ。

人口が江戸時代後期は『584人』、明治7年(1874年)は『1006人』、明治24年(1891年)は『1562人』と1世紀余りの間に人口が3倍近く増加し、昭和25年(1950年)には過去最大値の『3785人』を記録。その後は昭和45年(1970年)に『2807人』、平成2年(1990年)に『2352人』、平成12年(2010年)に『1763人』と減少が続いている。

経済の中心は水産業であるシラス漁・フグなどが盛んであり、ノリ・ワカメ等の冬場の養殖産業も盛んである。

以上、簡単な篠島の説明です。

最後に先日漁師の友人と話をし、平成29年1月~11月まで『50日シラス漁に行けてない。ピンチだぞ』と。例年は100日前後の出漁だそうです。小女子漁『0・ゼロ』、シラス漁『半分』大変な1年です。

変わらないのは島民の皆さんが親切で温かい島であることです。

『寺院紹介』 番外 宗真寺

【宗真寺の紹介】

路地に立つ石塔から緩やかな石段を登ると、創建から残る山門があります。そこから眼下に広がる師崎港、右側には篠島、左側には日間賀島を一望でき、一幅の絵画を見るような景勝地が広がっています。また、樹木に囲まれた境内には、阿弥陀信仰を伝える「南無阿弥陀佛」の六字名号の石塔、百日紅の老木の枝下には檀信徒の祈願が込められた千体地蔵尊があります。本堂の西側には。京都伏見稲荷由来の朝日稲荷がまつられています。

 

 

【お十夜】(十夜法要)

お十夜は、正しくは「十日十夜法要」といい、以前は十日十夜にわたって行われた念仏会のことです。現在では、一般的に一日一座の法会となっています。元々は天台宗の寺院で貴族のためにおこなわれていましたが、1495年(明応4年)に鎌倉光明寺9世の観誉祐崇上人が後土御門天皇の勅命を受けて宮中で行い、許しを得て京都から鎌倉に移し、民間念仏として行ったことから全国の浄土系寺院に広まったと伝えられています。その由来は、『無量寿経』に阿弥陀如来への報恩が説かれており、「この世での十日十夜の善根は、無量寿国で千歳(千年)の善根にまさる」ということからこの法要が行われるようになりました。

宗真寺では、例年10月中旬の夜に行われてます。婦人会の方々による手作りの夕食を頂いたあと、塔婆回向を勤め、お説教を聞き、最後に108本の蝋燭に火を灯し、幻想的な雰囲気の中で、お参りの方々全員でお念仏を称えます。

『えんじぞう』 第15番札所 延命寺 

暑中見舞い申し上げます。

井戸端会議、子供たちが遊ぶ声、会合などの地域の「地縁」、少子化、親戚つき合いなどの「血縁」が薄れている世の中、それに加え、「心の豊かさ」より「物の豊かさ」が優先される世の中になっている気がします。

南知多三十三観音霊場会があるこの美浜、南知多両町も「地縁」「血縁」が薄れてきています。空き家が増え、一人暮らし、老いた夫婦だけの家が多くなっています。

時代の流れといえばそれまでですが、

進学、就職で若者が育った地域を離れ、便利な所へ移り住む、少子化により兄弟、従妹が少なくなっている。皆様の住んでいる地域はどうでしょうか?

昨年の九月の秋彼岸、檀信徒の皆様、多くの良縁で境内にお地蔵様を設置しました。

このお寺、延命寺の「延」、そして上記のご縁の「縁」、円満の「円」から“えんじぞう”と名付けました。延命寺をお参りいただき、延命長寿、そしてより多くのご縁、ご縁による諸縁吉慶、良縁到来、そこからの地域円満、家庭・夫婦円満をお祈りいただければと思います。写真のように丸くほんわかしたお地蔵さまです。三十三観音参拝の際、観光や釣りの寄り道にお参りいただければと思います。

また、“えんじぞう”をデザインした絵馬を販売しています。祈願を書いて境内の絵馬掛けに奉納してください。

第十四番札所 遍照寺(へんじょうじ)

参拝者との会話より(納経所にて)

ある日病気回復を祈って巡拝している方がみえました。

「私は、脳梗塞で半年入院していました。やっと巡拝できるまでに回復したので、杖をつきながらお参りしています。今、自分で歩けるようになり、心経を唱えたり、人とおしゃべりしたりして、身体や頭をつかい、リハビリにもなっています。また、お大師さま、観音さまに病気回復を念ずる心が通じるのか、今年もお参りさせていただき感謝しています。」

これこそ身体、言葉、心の三密行の巡礼で病気回復への奇跡の力を得ているように思えました。

別のある日、すてきなTシャツを着た方がみえました。

Tシャツの前後にナムちゃんのワンポイント絵、また、南無大師返照金剛、観音さまのお姿等、いろいろあります。お聞きするとネットで購入するとのこと。「楽天、ヤフーの次に遍路→グッズ一覧という手順でさがし購入」とのこと。

今やネットで買い物は普通なのでしょうが、時代に遅れている私は初めて知りました。

参拝者からいろいろな情報を得ています。

寺院紹介 第十三番札所 神護寺(じんごじ)

師崎観音神護寺(じんごじ)の案内

神護寺は、知多半島を代表する古社の一つ、羽豆神社の神宮寺としての天台宗比叡山延暦寺派の歴史を刻んできました。

昔から厄除け、安産の寺として親しまれてきましたが、「揺りカゴから墓場まで」福祉の理念そのままに、観音さまは働いてくださっております。

霊場巡拝はどうしても慌ただしい御参りになりがちですが、お寺ではゆっくりと時間を過ごしていただけたらと思っております。

本堂は元禄時代の建物で、絵馬の一つに六歌仙の額があり、天井には大阪の森本有泉画伯のお弟子さんによって奉納された天井画があり、師崎の切り絵作家山崎修氏の作品や、写真愛好家による左義長の写真があげられております。

納経所のある建物には名古屋城で焼かれた御深井焼きの毘沙門さまを中心に焼き物の七福神をお祀りしておりますが、近年、村の信者さんの計らいで、京都から「ひざの護り普賢さん」を迎えることができ、思わぬ土地の方も足を運んでくれております。

また、裏山にも観音さまが祀られていて、そこからの景色に(観音さまのふだらく浄土を眺める思いで)心をいやして戴ければと思っております。

神護寺の行事

一月第四日曜日  八大龍王大祭と左義長採火式護摩祈祷

※この日は境内に大漁旗が五十本近く揚げられます。(午前中)

二月三日

節分星祭り 厄除け祈祷

※この日は秘仏(持経観音)のお開帳が行われます。

「観音の 手に持つ蓮華 開かずも

菩提の種は 熟しおるなり」 合掌

寺院紹介 第十二番札所 新藏寺(しんぞうじ)

新藏寺は曹洞宗のお寺です。その曹洞宗には「梅花流詠讃歌」という「佛さま」にお唱えする「御和讃」や「御詠歌」があります。

その中の一つ「観世音菩薩御和讃」をご紹介いたします。

①、お慈悲の眼(まなこ)あたたかく   まどかに智慧は満ちわたる

この世の母のおん姿    南無や大悲(だいひ)の観世音

②、心の闇はくらくして  迷いはまこと深けれど

深きがゆえのおん誓い  南無や大悲の観世音

③、めぐみの中につつまれて  うれしさあまる起きふしに

何をば思いわずらわん      南無や大悲の観世音      

新藏寺では現在18名の方々の「梅花講員さん」が日々練習を重ねています。

「詠讃歌」は他にも、「お釈迦さま」を尊ぶ曲や「追善供養」の曲など80曲以上あります。また「南こうせつさん」が作詞作曲された「まごころに生きる」、「澄みわたる空」という曲もあり幅広い年齢の方々にお唱えしていただきたいと思います。ぜひ「梅花講」をご見学くださいませ。

       

観音経は正しくは、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」と言います。その中に「念彼観音力」というお言葉があります。「観音さま」のお名前を呼び、念ずれば「お力」をいただくことができるという意味です。

生きていると様々な苦難に出会います。そしてその苦難を乗り越えていかなければなりません。そんな時、ご家族や友人、先輩に話を聞いてもらい相談します。それでも中々解決できないこともあるかもしれません。

そんな時は、静かに手を合わせ「佛さま」に話を聞いていただきます。

どうすることもできない「心」を「佛さま」にお預けするのです。

一生懸命に生きていく勇気、今ここにいる自分を見つける智慧を、「佛さま」、「観音さま」にお目にかかり、いただきましょう。

南知多33観音霊場の巡拝は、一日または二日間で満願できるコースです。

また、季節の良い時や、時間の空いている時に、少しずつゆっくりとお参りするのも良いかもしれません。新藏寺でも、毎年10月に数名で巡拝しています。一日で巡拝すると、朝7時頃より夕方5時頃までかかることもあります。少し疲れますが、大変心地よい疲れです。充実した気持ちになります。きっと日々を生きてゆく「パワー」を授かったからだと思います。

 

新藏寺では、毎月18日「観音さま」、24日「お地蔵さま」のお参りを行っています。

皆で「お経」をお称えします。「観音さま」「お地蔵さま」のお徳をたたえ、御先祖さまにご供養し、自分自身を省みて、誓いを新たにするのです。

日時は変更になることもあります。

毎年春に、写経会を行っています。本堂前の「寶光観音さま」にお納めします。写経の種類は「般若心経、観音経、舎利礼文」、「梅花流詠讃歌」など、さらに「佛さま」のお姿を写す「写仏」もあります。

詳しくは、新藏寺までお問い合わせください(℡ 0569-63-1178)

寺院紹介 第十一番札所 成願寺(じょうがんじ)

成願寺には御本尊に阿弥陀如来をお祀りし、脇侍に准胝観世音菩薩を安置しております。

准胝とは、清浄という意味です。不安な世相に生きる者に限りない慈悲と心の救済を念じています。准胝観音は、「准胝仏母」とも呼ばれ、すべての観音様の母と考えられ、心を清浄にするとともに諸願を成就じょうさせる力をもっておられます。

女性の気持ちに寄り添い、同じ目線に立って、お参りされる方の悩み事や不安を一緒に考えてくれます。特に、子育て世代のお母さん、働く女性の悩みや不安を少しでも和らげてくれるかもしれません。

南知多三十三観音霊場の中では、二ヶ寺でしかお参りできない珍しい観音様ですので、ぜひ一度ご来山ください。

当寺には、もう一人の観音様、円空作の『善女龍王像』という木彫りの仏像がいらっしゃいます。その名の通り、女性のお姿をしており、人々をお救い下さる観音像です。

円空上人は江戸時代中期の方で、各地を旅しながら仏像を彫る仏師です。『善女龍王像』は高さ92㎝、胸のあたりに龍を抱いて荒々しくも、ほほえみのお顔は人を和やかな優しい気持ちにもさせます。

現在は秘仏としてお堂の奥に安置していますが、円空三佛霊場として、御朱印を作成いたしました。お参りされた多くの女性の方からも「カワイイ御朱印」との声をいただき、大変好評です。ぜひ、ゲットしてください。

二体の観音様をお参りして、良い「ご縁」を結んで頂きたいです。

 

 

『善女龍王像』御朱印

寺院紹介 第十番札所 医王寺(いおうじ)

皆さんこんにちは。五月に入り、吹き抜ける風もいよいよ暖かく、お参りをするには大変気持ちの良い季節になりました。

第十番医王寺は、訪れてみればお分かりの通り、本堂の再建並びに境内整備がなされ、平成二十四年に落慶法要を厳修いたしました。境内は以前と比べると、旧来の鬱蒼とした雰囲気がなくなって、驚くほど明るくなりました。

再建にあたり問題となったのは、境内奥の裏山が、愛知県のがけ条例によって急傾斜危険地域に指定されていて、現状では本堂建築の許可が下りない状況にありました。ですので、先ずは裏山の治山を進めることから始まりましたが、県への働きかけや南知多町への陳情等により、短期間では難しい案件に対して、何かと予算を付けてもらえるようになりました。再建の発議から約三年、ようやく再建への大きな障害をクリアすることができたわけであります。ですので、今も裏山に築かれたコンクリートの堅牢なよう壁を見るとあの頃の出来事を思い出すことがあります。そして、本当に多くの地元の方々の尽力により、現在の本堂が建てられたのだと感謝しております。

寺院紹介 第九番札所 正法寺(しょうぼうじ)

第九番札所、大悲山(だいひざん)正法寺は不空羂索ふくうけんさく観世音菩薩をお祀りしています。

不空羂索観世音菩薩様は獣を捕らえる網(羂)や魚を釣りあげる糸(索)を持って、迷いの世界で苦しむ人々を空しく逃さず(不空)ことごとく救ってくださる慈悲深い観音様なのです。

平成九年末に火災により堂宇・庫裡を全焼し、仏像も焼失してしまいました。

檀家をはじめ数多くの皆様の御支援・御協力・激励により再建することができました。

新しく観音様も安置致しました。

又、境内に六メートルを超す厄除観音も奉安されています。

寺院紹介 第八番札所 長寿寺(ちょうじゅじ)

この長寿寺は、寺歴は定かではないが、開基明應四年乙卯(一四九五年)で、本堂は棟札から文政三年(一八二〇年)に建立した。

 本堂の屋根棟瓦の仙翁山と刻されたオレンジ色の文字が象徴的です。こぢんまりした風格のある山門に何故か心が魅せられます。

 

 越えてきたばかりの峠道は“遍路泣かせの巡礼峠”としてお遍路さんたちが息をはずませた難所でした。そんな豊丘峠ですが、とてものどかな情景です。

 本尊は地蔵菩薩で、命をはぐくむ大地のように大悲を蔵しているところからこ の名があり、人との救済の任にあたり地上に伝えられてゆくというのです。

「生みなさむ ものとてはなし 土の徳 今日ひとしおに 仰がるるかな」

という古歌そのままの象徴がお地蔵さまなのです。

 本堂右側に抱き地蔵さま(おもかるさん)

抱き地蔵さまに手を合わせ、真心込めてお唱えし、おもかるさんを持ち上げて、軽く上がった時に願いが叶うと言われています。願いが叶うといいですね。

 

 毎年正月七日に地蔵供養、古い御札の供養があり、近隣の人たちが集まり七草粥の接待があります。

第七番札所 長福寺(ちょうふくじ)

 長福寺は、寺歴や縁起を示す文献などが残されていないため、定かではありませんが、本堂修理の時に、棟木に記されていた文政年中の墨跡から、この乙方の地に移転して、かれこれ200年になろうとしています。

 昔は、矢梨の信号より南の海岸沿いにあり、往時には、沖を通う船が黄金に輝く御本尊阿弥陀如来を敬い、しばし速度を落としたと言われています。その本尊がある夜盗まれ、峠に捨てられてから、墨を塗られ、まっ黒になりましたが、現在は修復しました。

 本堂右側の太子堂には、非常に珍しいとされる聖徳太子に二歳像「稚児太子像」が安置されていますが、こちらも縁起など詳細はわかっていません。現在は、毎年1月4日に信者が集まり、太子講が開かれています。

 平成に入り、本堂前に梵鐘・大念珠を寄進され、今では参拝の折りに、大念珠を廻されお参りされている方が、見受けられます。

 また県道沿いから見える、豊ヶ丘観音は、以前、乙方の北の地区に建立されていたものを、当寺に移転し、こちらも今では、参拝者の拠り所となっています。

第六番札所 法華寺(ほっけじ)

 法華一乗の心にのっとり、大乗山法華寺と名付けられたこの寺は、遠く三河湾を望む丘陵地にあり、隆盛をきわめた往時を偲ぶように静かに佇んでいます。

 多くの古刹がそうであるように、その歴史は明らかではありません。神亀五年(七二八)行基菩薩が、自ら刻まれた聖観世音菩薩を安置したのがはじまりと伝えられ、文治二年(一一八六)散位三善朝臣倫重が再興しました。公家の菩提寺として七堂伽藍をそろえ、塔頭十七坊、寺僧三百人の密教道場であったといわれております。その為に、天正五年(一五七七)織田信長の手兵に攻められ、堂塔は悉く灰燼となり僅かに一院を残すのみとなりましたが、幸いに本尊は火災を免れました。

 その後、文禄三年(一五九四)比叡山より真栄法印が住持するにおよび、復興の機運にめぐまれたものの、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦のとき、九鬼大隅守の戦火を受け、再び焼失しました。

 お寺の附近には、今でも金剛坊、遍照坊などの地名が残り、往時の古坊の廃跡を偲ぶことができます。

 こうして法燈は再び衰退しましたが、その後、寛永、享保、安政、明治、平成とそれぞれの時代に伽藍を興営して、恒に法華一乗の妙旨によって、真俗一貫の大道弘通につとめ、教化の道場となってきました。

 今の法華寺は、木立と竹林に囲まれ、山間の風情濃い境内には、桜や紫陽花など四季折々の花が咲き、静寂の中に心洗われるものがあります。境内には、浄土宗の高僧、徳本上人の念仏の碑があります。上人の碑は、郡内の多くの寺で見かけられますが、この矢梨の里も念仏の声に包まれた日々のあったことが偲ばれます。また、鐘楼の鐘には、百八のイボそれぞれにこよりがまかれています。これはイボ取りの秘法とのこと。他にも願がかけられているのでしょうが、素朴な信仰に里の暖かさが感じられます。

 戦乱を逃れた御本尊は、古来「矢梨観音」と呼ばれて親しまれており、毎月十八日には護摩供養が厳修され、多数の善男善女の参詣により賑わっています。

子どもが親を育てる           第五番札所 誓海寺(せいかいじ)

昔、教育関係の本を多くお書きになっておられるが次のようなことをいっておられます。

おとなが学べば子どもも必ず学ぶ。それがしつけるという動詞なのだ。

 大人が学ばずに、子どもだけに学ばせようというところに悲劇がある、そのようなことをおっしゃっていました。まず、自分の姿勢を正すことが、何よりも大事なことであろうと思います。

また松本のご出身の歌人の方が次のようなことをいっておられます。

 三界の首枷(くびかせ)といふ子を持ちて心定まれりわが首枷よ

「子は三界の首枷」という諺がございます。「三界」は、仏教の専門語でございますが、凡夫人間の住む世界というように申し上げたらよいでしょうか。その凡夫の私どもの「首枷」というのは、子どものお陰で融通がつかない、自由がきかない、つまり、子どもに縛られてという一面です。でも、そのお陰で親としての自分の姿勢が決まり、気ままにしたい私が、子どものお陰で親として姿勢を正すことができると、子どもを拝む姿がこの歌に出ております。

私が若いときに修行をしていた修行道場に講師として行ったときの話です。その修行道場では、朝の五時くらいから坐禅をしており、どんなに眠くても五時からの坐禅には起きなくてはなりません。

この修行道場に来させていただいたお陰で、サボれずに、今日も坊さんらしい第一歩から始めさせていただけました。それから坐禅をしている雲水たちの前を検単(けんたん)といって、ずっと回ります。心からのお礼の思いを込めて、「あなたがたのお陰で、怠け者の私が、今日もどうやら坊さんらしい坐禅の第一歩から始めさせてもらえた。ありがとう」と合掌して回るんですね。

修行僧たちは私に教えてもらっていると思うかも知れませんが、実は、私が修行僧たちに教えていただいているのです。しみじみとそう思いました。先生の先生は生徒なんだ、教師は生徒たちを先生と拝みながら、自分の姿勢を正していく。これが先生と呼ばれる人のとるべき姿勢であろう、と気付かせてもらったことです。

子ども達が、こちらをしっかりと見据えて、「お父さん」、「お母さん」、と呼んでくれる。その瞳をまっすぐに受けて立てるような、毎日の生き方であり得たかと自分を振り返るときに、恥ずかしい自分の生き方でしかなく、その心に応え得るだけの自分ではない毎日。自分を恥じて、勘弁してくれと、姿勢を限りなく正しながら生きようという誓願の姿が、親としての姿ではないでしょうか。その中で初めて、本当の意味での健全な子育ても出来るのではないかと思います。

また、職場での後輩や、部下に教える立場にあるときもこのような姿勢で行けるとよいのではないかと思います。

木原豊次郎                 第三番札所 全忠寺(ぜんちゅうじ)

 全忠寺がある愛知県美浜町河和出身の偉人をご紹介したいと思います。木原豊次郎氏は曹洞宗の大本山総持寺の山門を寄進したのをはじめ、豊川稲荷本殿前の大灯篭、地元河和小学校の講堂、美浜町の寺社仏閣に寄進をするなど大変な篤志家です。

 木原氏は大正一三年樺太のサハリンで林業を創業し、戦前には樺太全土の山林伐採、植林に手をかけ、大きく事業を伸ばしました。事業所や山林を二府二十県にまたがって持つようになり、日本一の山林王と呼ばれるようにまでなりました。木原氏は、幼少の頃、河和全忠寺に弟子入りした経験もあることから神仏への信仰が厚く、寺社仏閣への寄進が多数あります。全忠寺の須弥壇、天蓋にも木原氏の施主名を見ることが出来ます。妻の逝去を機に総持寺の檀徒となり、檀徒筆頭である「檀頭」になりました。また得度(僧侶となる出家の儀式)を受け、「崇雲」という僧名に改められました。そして昭和四十四年には、妻の菩提を弔うために総持寺に三門を寄進しました。

 当地出身の偉大なる篤志家に敬意を表したいと思います。

第二番札所 弥勒寺(みろくじ)

こんにちは、美浜町北方(きたがた)にある2番札所の弥勒寺(みろくじ)です。 

お寺の名前はなかなか読むのが難しいですね。弥勒寺も、よく「お寺の名前は何と読むんですか?」ときかれることがあります。

当寺の場合は、本尊さまの弥勒菩薩(みろくぼさつ)の名前をいただいて弥勒寺と名付けられています。

お寺の名前には○○寺などの寺号(じごう)のほかに、山号(さんごう)というものもあって△△山○○寺といいます。弥勒寺も正式には龍華山弥勒寺(りゅうかざんみろくじ)といいます。

この龍華という山号も寺号と同じように、本尊さまの弥勒菩薩に由来したものです。

弥勒菩薩は、現在は兜率天(とそつてん)という所でご修行中ですが、お釈迦さまが入滅されてから567千万年後に、第二の釈迦としてこの世に現れて、お釈迦さまが救い漏らしたすべての人々を救済することが約束されている仏様です。

お釈迦さまが悟りを開かれたのは菩提樹の下でしたが、弥勒菩薩が悟りを開かれるのが「龍華樹(りゅうげじゅ)」という木の下だそうです。この樹の名前をとって山号にしたものです。

取っつきにくいお寺の名前も、そのいわれを知ると少しは身近に感じていただけるのではないでしょうか。

 

つぎに、弥勒寺の行事のうちで、参拝の方にも参加していただける行事を紹介します。興味のある方はお出かけ下さい。

●寺宝「地獄絵」ご開帳

  春と秋のお彼岸中、十幅の地獄絵図を掲げています。納経所で許可を得て拝観下さい。

  運がいいと、住職の絵解きが聞けるかもしれません。

●写経会

  春夏秋冬の年4回写経会をしています。参加希望の方は電話でお申込みください。

  春…春分の日、夏…夏至の日、秋…秋分の日、冬…1月中旬の日曜日

  平成30年は114日、321日、621日、923日の午後2時~

●うちわ絵付け体験

  7月中旬(日時未定)

参加希望の方は電話でご確認、お申込みください。

電話番号 0569-82-0511

 

観音さまあれこれ             第一番札所 時志(ときし)観音 影現寺(ようげんじ)

観音菩薩は、文字通り「音を観る菩薩」ということ。「音」は、字典に「声、心に生じ外に節有る、これを音という」というように、人々の心に生じた苦悩の音声で、「観」は、詳しく見ることで、「観察」という言葉もあります。向きあったものに対して、その真実を見極めること。如実知見というように現実をありのままに見ることです。それ故、観音菩薩は観音菩薩というように、世間の人々の苦悩や災いを正しく見極め救いの手を差しのべてくれる菩薩ということです。

菩薩は仏陀となる事を理想として修行するもの、仏陀の候補者・代行者です。観音力を念ずれば、苦悩や災いから救われ、身心共に平安が得られるということになります。

 一方、菩薩のことを、永平寺を開いた道元様は「諸仏と菩薩と異類にあらず」といっています。もともと仏陀であるのに菩薩として世間に止まり「自未得度先度他」と、自分を後回しにして、まず他人を救いたい幸せにしたいと誓願をたてて働いているのが菩薩です。

その為に、観音菩薩は姿形の異なる化身となり、常に人々を救済してくれます。その具体的な働きを『観音経(普門品)』では、三十三化身として説いています。化身は仏様の化現した姿、仮の姿をいいます。このように観音菩薩の働きが相手に応じて、種々に姿形を変え、何時でも何処でもあらゆる人々に救いの手を差しのべておられるのが観音菩薩です。

ところで、札所を巡拝するとき、合掌低頭しお経を唱えます。曹洞宗では「威儀即仏法、作法是宗旨」といいます。日常の威儀作法は法に適った行儀作法であることが望ましいのです。札所巡拝においても、合掌低頭するその身構え気構え心構えが、仏様の立居ふるまいになるよう、身を調え、息を調え、心を調える事です。また、お経は「中音平声」で読み、文章の切れ目は気にせず、息の切れ目が切れ目となります。そうすることにより息が調い、心が落ち着き、観音様の世界に近づくことができます。

最後に、札所一番の時志観音「影現寺」は、一時期「普門寺」といわれていました。宝暦3年(1753)12月に元の「影現寺」となり、現在に至っております。普門寺も影現寺も観音様のお寺という意味です。