子どもが親を育てる           第五番札所 誓海寺(せいかいじ)

昔、教育関係の本を多くお書きになっておられるが次のようなことをいっておられます。

おとなが学べば子どもも必ず学ぶ。それがしつけるという動詞なのだ。

 大人が学ばずに、子どもだけに学ばせようというところに悲劇がある、そのようなことをおっしゃっていました。まず、自分の姿勢を正すことが、何よりも大事なことであろうと思います。

また松本のご出身の歌人の方が次のようなことをいっておられます。

 三界の首枷(くびかせ)といふ子を持ちて心定まれりわが首枷よ

「子は三界の首枷」という諺がございます。「三界」は、仏教の専門語でございますが、凡夫人間の住む世界というように申し上げたらよいでしょうか。その凡夫の私どもの「首枷」というのは、子どものお陰で融通がつかない、自由がきかない、つまり、子どもに縛られてという一面です。でも、そのお陰で親としての自分の姿勢が決まり、気ままにしたい私が、子どものお陰で親として姿勢を正すことができると、子どもを拝む姿がこの歌に出ております。

私が若いときに修行をしていた修行道場に講師として行ったときの話です。その修行道場では、朝の五時くらいから坐禅をしており、どんなに眠くても五時からの坐禅には起きなくてはなりません。

この修行道場に来させていただいたお陰で、サボれずに、今日も坊さんらしい第一歩から始めさせていただけました。それから坐禅をしている雲水たちの前を検単(けんたん)といって、ずっと回ります。心からのお礼の思いを込めて、「あなたがたのお陰で、怠け者の私が、今日もどうやら坊さんらしい坐禅の第一歩から始めさせてもらえた。ありがとう」と合掌して回るんですね。

修行僧たちは私に教えてもらっていると思うかも知れませんが、実は、私が修行僧たちに教えていただいているのです。しみじみとそう思いました。先生の先生は生徒なんだ、教師は生徒たちを先生と拝みながら、自分の姿勢を正していく。これが先生と呼ばれる人のとるべき姿勢であろう、と気付かせてもらったことです。

子ども達が、こちらをしっかりと見据えて、「お父さん」、「お母さん」、と呼んでくれる。その瞳をまっすぐに受けて立てるような、毎日の生き方であり得たかと自分を振り返るときに、恥ずかしい自分の生き方でしかなく、その心に応え得るだけの自分ではない毎日。自分を恥じて、勘弁してくれと、姿勢を限りなく正しながら生きようという誓願の姿が、親としての姿ではないでしょうか。その中で初めて、本当の意味での健全な子育ても出来るのではないかと思います。

また、職場での後輩や、部下に教える立場にあるときもこのような姿勢で行けるとよいのではないかと思います。

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