観音さまあれこれ             第一番札所 時志(ときし)観音 影現寺(ようげんじ)

観音菩薩は、文字通り「音を観る菩薩」ということ。「音」は、字典に「声、心に生じ外に節有る、これを音という」というように、人々の心に生じた苦悩の音声で、「観」は、詳しく見ることで、「観察」という言葉もあります。向きあったものに対して、その真実を見極めること。如実知見というように現実をありのままに見ることです。それ故、観音菩薩は観音菩薩というように、世間の人々の苦悩や災いを正しく見極め救いの手を差しのべてくれる菩薩ということです。

菩薩は仏陀となる事を理想として修行するもの、仏陀の候補者・代行者です。観音力を念ずれば、苦悩や災いから救われ、身心共に平安が得られるということになります。

 一方、菩薩のことを、永平寺を開いた道元様は「諸仏と菩薩と異類にあらず」といっています。もともと仏陀であるのに菩薩として世間に止まり「自未得度先度他」と、自分を後回しにして、まず他人を救いたい幸せにしたいと誓願をたてて働いているのが菩薩です。

その為に、観音菩薩は姿形の異なる化身となり、常に人々を救済してくれます。その具体的な働きを『観音経(普門品)』では、三十三化身として説いています。化身は仏様の化現した姿、仮の姿をいいます。このように観音菩薩の働きが相手に応じて、種々に姿形を変え、何時でも何処でもあらゆる人々に救いの手を差しのべておられるのが観音菩薩です。

ところで、札所を巡拝するとき、合掌低頭しお経を唱えます。曹洞宗では「威儀即仏法、作法是宗旨」といいます。日常の威儀作法は法に適った行儀作法であることが望ましいのです。札所巡拝においても、合掌低頭するその身構え気構え心構えが、仏様の立居ふるまいになるよう、身を調え、息を調え、心を調える事です。また、お経は「中音平声」で読み、文章の切れ目は気にせず、息の切れ目が切れ目となります。そうすることにより息が調い、心が落ち着き、観音様の世界に近づくことができます。

最後に、札所一番の時志観音「影現寺」は、一時期「普門寺」といわれていました。宝暦3年(1753)12月に元の「影現寺」となり、現在に至っております。普門寺も影現寺も観音様のお寺という意味です。

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