寺院紹介 第八番札所 長寿寺(ちょうじゅじ)

この長寿寺は、寺歴は定かではないが、開基明應四年乙卯(一四九五年)で、本堂は棟札から文政三年(一八二〇年)に建立した。

 本堂の屋根棟瓦の仙翁山と刻されたオレンジ色の文字が象徴的です。こぢんまりした風格のある山門に何故か心が魅せられます。

 

 越えてきたばかりの峠道は“遍路泣かせの巡礼峠”としてお遍路さんたちが息をはずませた難所でした。そんな豊丘峠ですが、とてものどかな情景です。

 本尊は地蔵菩薩で、命をはぐくむ大地のように大悲を蔵しているところからこ の名があり、人との救済の任にあたり地上に伝えられてゆくというのです。

「生みなさむ ものとてはなし 土の徳 今日ひとしおに 仰がるるかな」

という古歌そのままの象徴がお地蔵さまなのです。

 本堂右側に抱き地蔵さま(おもかるさん)

抱き地蔵さまに手を合わせ、真心込めてお唱えし、おもかるさんを持ち上げて、軽く上がった時に願いが叶うと言われています。願いが叶うといいですね。

 

 毎年正月七日に地蔵供養、古い御札の供養があり、近隣の人たちが集まり七草粥の接待があります。

第七番札所 長福寺(ちょうふくじ)

 長福寺は、寺歴や縁起を示す文献などが残されていないため、定かではありませんが、本堂修理の時に、棟木に記されていた文政年中の墨跡から、この乙方の地に移転して、かれこれ200年になろうとしています。

 昔は、矢梨の信号より南の海岸沿いにあり、往時には、沖を通う船が黄金に輝く御本尊阿弥陀如来を敬い、しばし速度を落としたと言われています。その本尊がある夜盗まれ、峠に捨てられてから、墨を塗られ、まっ黒になりましたが、現在は修復しました。

 本堂右側の太子堂には、非常に珍しいとされる聖徳太子に二歳像「稚児太子像」が安置されていますが、こちらも縁起など詳細はわかっていません。現在は、毎年1月4日に信者が集まり、太子講が開かれています。

 平成に入り、本堂前に梵鐘・大念珠を寄進され、今では参拝の折りに、大念珠を廻されお参りされている方が、見受けられます。

 また県道沿いから見える、豊ヶ丘観音は、以前、乙方の北の地区に建立されていたものを、当寺に移転し、こちらも今では、参拝者の拠り所となっています。

第六番札所 法華寺(ほっけじ)

 法華一乗の心にのっとり、大乗山法華寺と名付けられたこの寺は、遠く三河湾を望む丘陵地にあり、隆盛をきわめた往時を偲ぶように静かに佇んでいます。

 多くの古刹がそうであるように、その歴史は明らかではありません。神亀五年(七二八)行基菩薩が、自ら刻まれた聖観世音菩薩を安置したのがはじまりと伝えられ、文治二年(一一八六)散位三善朝臣倫重が再興しました。公家の菩提寺として七堂伽藍をそろえ、塔頭十七坊、寺僧三百人の密教道場であったといわれております。その為に、天正五年(一五七七)織田信長の手兵に攻められ、堂塔は悉く灰燼となり僅かに一院を残すのみとなりましたが、幸いに本尊は火災を免れました。

 その後、文禄三年(一五九四)比叡山より真栄法印が住持するにおよび、復興の機運にめぐまれたものの、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦のとき、九鬼大隅守の戦火を受け、再び焼失しました。

 お寺の附近には、今でも金剛坊、遍照坊などの地名が残り、往時の古坊の廃跡を偲ぶことができます。

 こうして法燈は再び衰退しましたが、その後、寛永、享保、安政、明治、平成とそれぞれの時代に伽藍を興営して、恒に法華一乗の妙旨によって、真俗一貫の大道弘通につとめ、教化の道場となってきました。

 今の法華寺は、木立と竹林に囲まれ、山間の風情濃い境内には、桜や紫陽花など四季折々の花が咲き、静寂の中に心洗われるものがあります。境内には、浄土宗の高僧、徳本上人の念仏の碑があります。上人の碑は、郡内の多くの寺で見かけられますが、この矢梨の里も念仏の声に包まれた日々のあったことが偲ばれます。また、鐘楼の鐘には、百八のイボそれぞれにこよりがまかれています。これはイボ取りの秘法とのこと。他にも願がかけられているのでしょうが、素朴な信仰に里の暖かさが感じられます。

 戦乱を逃れた御本尊は、古来「矢梨観音」と呼ばれて親しまれており、毎月十八日には護摩供養が厳修され、多数の善男善女の参詣により賑わっています。

子どもが親を育てる           第五番札所 誓海寺(せいかいじ)

昔、教育関係の本を多くお書きになっておられるが次のようなことをいっておられます。

おとなが学べば子どもも必ず学ぶ。それがしつけるという動詞なのだ。

 大人が学ばずに、子どもだけに学ばせようというところに悲劇がある、そのようなことをおっしゃっていました。まず、自分の姿勢を正すことが、何よりも大事なことであろうと思います。

また松本のご出身の歌人の方が次のようなことをいっておられます。

 三界の首枷(くびかせ)といふ子を持ちて心定まれりわが首枷よ

「子は三界の首枷」という諺がございます。「三界」は、仏教の専門語でございますが、凡夫人間の住む世界というように申し上げたらよいでしょうか。その凡夫の私どもの「首枷」というのは、子どものお陰で融通がつかない、自由がきかない、つまり、子どもに縛られてという一面です。でも、そのお陰で親としての自分の姿勢が決まり、気ままにしたい私が、子どものお陰で親として姿勢を正すことができると、子どもを拝む姿がこの歌に出ております。

私が若いときに修行をしていた修行道場に講師として行ったときの話です。その修行道場では、朝の五時くらいから坐禅をしており、どんなに眠くても五時からの坐禅には起きなくてはなりません。

この修行道場に来させていただいたお陰で、サボれずに、今日も坊さんらしい第一歩から始めさせていただけました。それから坐禅をしている雲水たちの前を検単(けんたん)といって、ずっと回ります。心からのお礼の思いを込めて、「あなたがたのお陰で、怠け者の私が、今日もどうやら坊さんらしい坐禅の第一歩から始めさせてもらえた。ありがとう」と合掌して回るんですね。

修行僧たちは私に教えてもらっていると思うかも知れませんが、実は、私が修行僧たちに教えていただいているのです。しみじみとそう思いました。先生の先生は生徒なんだ、教師は生徒たちを先生と拝みながら、自分の姿勢を正していく。これが先生と呼ばれる人のとるべき姿勢であろう、と気付かせてもらったことです。

子ども達が、こちらをしっかりと見据えて、「お父さん」、「お母さん」、と呼んでくれる。その瞳をまっすぐに受けて立てるような、毎日の生き方であり得たかと自分を振り返るときに、恥ずかしい自分の生き方でしかなく、その心に応え得るだけの自分ではない毎日。自分を恥じて、勘弁してくれと、姿勢を限りなく正しながら生きようという誓願の姿が、親としての姿ではないでしょうか。その中で初めて、本当の意味での健全な子育ても出来るのではないかと思います。

また、職場での後輩や、部下に教える立場にあるときもこのような姿勢で行けるとよいのではないかと思います。

木原豊次郎                 第三番札所 全忠寺(ぜんちゅうじ)

 全忠寺がある愛知県美浜町河和出身の偉人をご紹介したいと思います。木原豊次郎氏は曹洞宗の大本山総持寺の山門を寄進したのをはじめ、豊川稲荷本殿前の大灯篭、地元河和小学校の講堂、美浜町の寺社仏閣に寄進をするなど大変な篤志家です。

 木原氏は大正一三年樺太のサハリンで林業を創業し、戦前には樺太全土の山林伐採、植林に手をかけ、大きく事業を伸ばしました。事業所や山林を二府二十県にまたがって持つようになり、日本一の山林王と呼ばれるようにまでなりました。木原氏は、幼少の頃、河和全忠寺に弟子入りした経験もあることから神仏への信仰が厚く、寺社仏閣への寄進が多数あります。全忠寺の須弥壇、天蓋にも木原氏の施主名を見ることが出来ます。妻の逝去を機に総持寺の檀徒となり、檀徒筆頭である「檀頭」になりました。また得度(僧侶となる出家の儀式)を受け、「崇雲」という僧名に改められました。そして昭和四十四年には、妻の菩提を弔うために総持寺に三門を寄進しました。

 当地出身の偉大なる篤志家に敬意を表したいと思います。

第二番札所 弥勒寺(みろくじ)

こんにちは、美浜町北方(きたがた)にある2番札所の弥勒寺(みろくじ)です。 

お寺の名前はなかなか読むのが難しいですね。弥勒寺も、よく「お寺の名前は何と読むんですか?」ときかれることがあります。

当寺の場合は、本尊さまの弥勒菩薩(みろくぼさつ)の名前をいただいて弥勒寺と名付けられています。

お寺の名前には○○寺などの寺号(じごう)のほかに、山号(さんごう)というものもあって△△山○○寺といいます。弥勒寺も正式には龍華山弥勒寺(りゅうかざんみろくじ)といいます。

この龍華という山号も寺号と同じように、本尊さまの弥勒菩薩に由来したものです。

弥勒菩薩は、現在は兜率天(とそつてん)という所でご修行中ですが、お釈迦さまが入滅されてから567千万年後に、第二の釈迦としてこの世に現れて、お釈迦さまが救い漏らしたすべての人々を救済することが約束されている仏様です。

お釈迦さまが悟りを開かれたのは菩提樹の下でしたが、弥勒菩薩が悟りを開かれるのが「龍華樹(りゅうげじゅ)」という木の下だそうです。この樹の名前をとって山号にしたものです。

取っつきにくいお寺の名前も、そのいわれを知ると少しは身近に感じていただけるのではないでしょうか。

 

つぎに、弥勒寺の行事のうちで、参拝の方にも参加していただける行事を紹介します。興味のある方はお出かけ下さい。

●寺宝「地獄絵」ご開帳

  春と秋のお彼岸中、十幅の地獄絵図を掲げています。納経所で許可を得て拝観下さい。

  運がいいと、住職の絵解きが聞けるかもしれません。

●写経会

  春夏秋冬の年4回写経会をしています。参加希望の方は電話でお申込みください。

  春…春分の日、夏…夏至の日、秋…秋分の日、冬…1月中旬の日曜日

  平成30年は114日、321日、621日、923日の午後2時~

●うちわ絵付け体験

  7月中旬(日時未定)

参加希望の方は電話でご確認、お申込みください。

電話番号 0569-82-0511

 

観音さまあれこれ             第一番札所 時志(ときし)観音 影現寺(ようげんじ)

観音菩薩は、文字通り「音を観る菩薩」ということ。「音」は、字典に「声、心に生じ外に節有る、これを音という」というように、人々の心に生じた苦悩の音声で、「観」は、詳しく見ることで、「観察」という言葉もあります。向きあったものに対して、その真実を見極めること。如実知見というように現実をありのままに見ることです。それ故、観音菩薩は観音菩薩というように、世間の人々の苦悩や災いを正しく見極め救いの手を差しのべてくれる菩薩ということです。

菩薩は仏陀となる事を理想として修行するもの、仏陀の候補者・代行者です。観音力を念ずれば、苦悩や災いから救われ、身心共に平安が得られるということになります。

 一方、菩薩のことを、永平寺を開いた道元様は「諸仏と菩薩と異類にあらず」といっています。もともと仏陀であるのに菩薩として世間に止まり「自未得度先度他」と、自分を後回しにして、まず他人を救いたい幸せにしたいと誓願をたてて働いているのが菩薩です。

その為に、観音菩薩は姿形の異なる化身となり、常に人々を救済してくれます。その具体的な働きを『観音経(普門品)』では、三十三化身として説いています。化身は仏様の化現した姿、仮の姿をいいます。このように観音菩薩の働きが相手に応じて、種々に姿形を変え、何時でも何処でもあらゆる人々に救いの手を差しのべておられるのが観音菩薩です。

ところで、札所を巡拝するとき、合掌低頭しお経を唱えます。曹洞宗では「威儀即仏法、作法是宗旨」といいます。日常の威儀作法は法に適った行儀作法であることが望ましいのです。札所巡拝においても、合掌低頭するその身構え気構え心構えが、仏様の立居ふるまいになるよう、身を調え、息を調え、心を調える事です。また、お経は「中音平声」で読み、文章の切れ目は気にせず、息の切れ目が切れ目となります。そうすることにより息が調い、心が落ち着き、観音様の世界に近づくことができます。

最後に、札所一番の時志観音「影現寺」は、一時期「普門寺」といわれていました。宝暦3年(1753)12月に元の「影現寺」となり、現在に至っております。普門寺も影現寺も観音様のお寺という意味です。